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紫電77
2024-05-09 | コメント(0)77年富士GCシリーズを戦うべく76年後半から計画された紫電77。
紫電1977年富士グランチャンピオンシリーズでデビュー、シャーシデザインはノバの森脇基恭さん、ボディデザインはムーンクラフトの由良拓也さんです。当時トップコンストラクターのひとつだった伊藤レーシングが車体製作を担当。
流麗なクローズドボディーを纏ったとても美しいレーシングカーです。76年全日本F2000チャンピオン「日本一強い男」と言われた高原敬武選手がドライバーを務めるとあって、出走前から大きな話題を集めました。
当時はマーチ、シェブロン、ローラ等のオープンマシンが富士で活躍、紫電の最大の特徴は富士GC専用としてデザインされたクローズドボデーということ。
ちなみに、オープン2シーターのみだった富士GC初のクローズドクーペとなった理由は、直線の長いストレートで空力的に有利だろうと判断されたからだそうです。
デビュー戦は、6月の第2戦でした。梅雨時期に入り紫電は雨に阻まれ雨対策に追われてしまう。
全天候型のクローズドボデー、ワイパーやウォッシャー、ウインドの曇り止め対策などに時間を取られてしまったそうです。十分なテスト走行も行えず、12周でのリタイアとなってしまいました。紫電77から1978年にシーズン当初紫電改へと移行し、当時ルーキーだった関谷正徳選手がドライブするも続出するトラブルに対し様々な改造が施されたが、本来期待されていたパフォーマンスを発揮することは有りませんでした。
【78年シーズン当初セミ・オープンルーフ、短くカットされたテールにハイマウント型のリアウイングを装着した姿で登場】
同シーズン終盤には当時戦闘力を増していた13Bロータリーエンジンを搭載し、ラジエターを後方に移動。
コクピットの背後に大きなダクトが備え付けられ、フロントカウルも角ばった「従来型」のものを装備し信頼性向上を図ったのですがその後も目立った成績は残せぬまま78年のレース中に炎上。燃え尽きてしまった悲運のマシンだったのです。ムーンクラフトさんが制作したレーシングカーのボディはマッドハウスさんが保管され、当時のFRP型がどうなっているか?調査したところ山の中で苔だらけになっていると。
【 紫電改のフロントカウル左画像・ 右はショートタイプのリアカウルの型 画像はムーンクラフトさんブログより 】
由良さんがあるレーシングカーコレクターのU氏にこの話をしたところ「それじゃレプリカを作ってみたいね!」
と言うことになり、とんとん拍子に製作することが決まったそうです。当時のエンジンはBMW製 FJ1600ベース、エンジンは4AG改で製作された紫電77レプリカ。
由良卓也さんのブログでご自身の作品の中で、美しさで後世に名を残したという意味では、この「紫電」が一番かもしれない、と書かれていた事、また何かの記事で紫電のボディの型が苔だらけで山中に眠っていると見た事が有りました。
我々世代は由良卓也さんと言えばホンダ バラードスポーツ CR-X 1.5i 無限PRO.のキットが強烈に印象に残っています。昨年の忘年会で紫電レプリカオーナーのUさんから紫電復活作戦苦労話も聞け、また近いうちに数多くのレーシングカーを展示するコレクションホールの完成も楽しみだ。
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