クラブ発足のきっかけ
LOTUS JPS CLUB 会長
戎 和夫
【1975年1月号 これが始まりだった。。。】
あれは1975年、私が小学校6年生のある日、いつもの散髪屋で見た少年ジャンプから始まった!
『どうしましょ?』 『短めに刈り上げてぇな!バリカンでもええよ』 『これでも読んどいて!』
と、散髪屋のおじさんが手渡した一冊の漫画!
当時は日産フェアレディ240Zやセリカ2000GTLBを見ては“カッコいい”と憧れの車達であった。
速さを極めるには車高を低く、低く、低くしなければ!と単純にスポーツカーの定義としての考えがあったようだ。
漫画“サーキットの狼”の主人公、風吹裕也の乗るロータスヨーロッパスペシャルは240ZGよりはるかに低い車高。
真っ白なボディに真っ赤なストライプ、空を飛びそうなデカいウィング!そして地を這うようなこの車高!
漫画に出会う前からミニカー集めに没頭していた私は更に車への興味が加速したと同時にロータスが大好きになった。
【池沢 早人師 先生のお誕生日パーティーで】
百貨店のスーパーカー展示会から、 休日には京都まで友人達とスーパーカー生写真を撮りに遠征した。
橋の上から高速道路を見下ろして、ロータスヨーロッパがパッシングをしながら車体を左右に揺さぶり一台また一台と
一般車をかわして走ってくる姿までイメージ出来る。
教科書やノートにはロータスヨーロッパの落書きが、外国映画を見れば画面の中にロータスヨーロッパが写らな
いかと期待し、頭の中からロータスヨーロッパスペシャルが離れない毎日。 プラモデルも何台作ったことか。
消しゴムからミニカー、ポスターもその時代のアイドルよりもロータスヨーロッパを選んだ。
1977年にはヨーロッパの後継車、ロータスエスプリが007“私を愛したスパイ”が上映、海から出てきた楔形のエスプリに
度肝を抜かれた、同時期にF1で活躍するロータスは黒いボディにゴールドのピンストライプ、スポンサー
John Player Specialのカラーリングにも憧れますますロータスへの思いが膨らんでいく。
免許を取得したら絶対にロータスに乗る!憧れのロータスヨーロッパSPに!と心に決めたのがこの頃だった。
雑誌の情報、周りからの助言、多くは “故障する” “部品が無い” “修理代が高い” と否定的な意見が多かった。
しかしどの車に乗っても満足せず平成2年12月に念願だったロータスヨーロッパを買うことを決心する。
以前から集めていた雑誌はもとより当時のカー雑誌を購入してはヨーロッパを探しショツプに連絡した。
当時の雑誌には最寄り駅や、車の情報、見に行く日にちなど書かれていた。。。。夢中だったんだと思う
【今でも大切にしている当時の雑誌】
平成3年1月より本格的にロータスヨーロッパを購入する行動に入った。岡山県、大阪、京都、関東まで
数十台のロータスヨーロッパを見て回った。何年かぶりに会うヨーロッパ、なんだこの低さは!やっぱりすごいの一言。
その後、関東のショップを何軒か周り、セヴンオークスから写真やヨーロッパの情報が送られてきた。
ネットのない時代にコツコツと情報を集め4か月後の平成3年4月8日、念願のヨーロッパスペシャルを購入した。
平成2年にヨーロッパを買うと決めてから、自作のガレージ作りに励む。入り口が少し斜めではあるが、
【自作ガレージ、宝物を入れる大切な空間だった】
自作としてはまずまずの出来。メンテナンスするには十分の広さである。
神戸灘区の陸運局まで取りに行き帰る途中に友人のタイヤショップに立ち寄り注文しておいた
ダンロップフォーミュラRに履き替える。(当時のハイグリップタイヤ)
ヨーロッパとのマッチングで世界第2位と言われたコーナリング性能を味わってやるぜ!と意気込んだ
ガレージに収まってからの楽しみの一つ!
毎朝エンジンをかけ暖機し、車を磨き、休日は暑い日も寒い日もワインディングへドライブ。
少しずつ車の事がわかってきた時のこと、リヤーの足まわりに異常を感じる。
ジャッキUPしてリヤタイヤを揺するとなんと4WS状態(笑) 早速、京都の山本自動車へ連絡。
山本さんが言うには「リヤのハブやろ。車もっておいで。」とのこと。
仕事を終え友人を誘って京都へ。
始めていく山本自動車。街灯も目印もなく、少し探すのに苦労する。 何とか到着し、少しの間、山本さんと話し込む。
会話と言うより質問責め。
「ノーマルの86と新車のヨーロッパやったら、同じドライバーが乗ったらどっちが速い?」 山本さんはどちらとも言わない。
「ヨーロッパがミズスマシのようにバンバン走って曲がると思とったやろー?」と逆に問いただされてかなりガックリした。
少しずつ自分の頭にあったヨーロッパのイメージが崩れ落ちていったのもこの頃である。
ガレージにロータスヨーロッパがない毎日がつづき、やっと山本さんよりTEL。車が出来たとのこと。
又、友人を呼んで京都まで行く。思ったより高い修理代。友人の車と2台分の高速代とガソリン代。
おまけに帰りに山本さんに「このタイヤ、あかんで、いまの時代のハイグリップはこの車には合ってないで」 と言われ、
いくら陽気な俺でも少し落ち込む。
その後、タイヤをBP490のただのラジアルに履き替える。それからはまずまずの調子。
ガソリンスタンドに車を止めれば人に話しかけられ、
信号で先頭に止まれば、横断中の人々の熱い視線を感じることが出来る。
これは今まで乗った車では味わえなかったこと。
最近では、ヨーロッパのあの低い車高も慣れ、まぁそんなこんなで楽しい毎日が続いていた。
ところが・・!!
ところが、ロータス ヨーロッパを購入して1年半を迎えようとした平成4年10月22日、最悪の日がやってきたのである。
少し車の多い阪神高速道路をガレージに無事たどり着く思いでアクセルを 踏み込む。
ところが、急にガタガタと凄い音と大きな振動。クラッチを切り、ニュートラルへ、速いペースで車のスピードが落ちていく。
とても安全とは思えないところでブレーキも踏んでいないのにロータス ヨーロッパはついに停止した。
もう少し安全な所へとギアーを1速へ。でも、ミッションが入らない。シフトはグラグラ。 頭の中はもうパニック!!
とりあえず、ふ~・・と一息入れて、自分で自分に冷静になるように訴える。
携帯電話も無い時代だ、このままでは後続の車に迷惑が掛かる。焦る、焦る!
安全を確認する余裕もなかったと思うが降りてロータス ヨーロッパのエンジンフードを開ける。
シフトリンケージをさわったらグラグラ。エンジンブロック横のリンケージを支持しているところがグラグラになっていた。
工具を取り出し、エンジンフードを頭の上に乗せ、後ろから来る車を気にしながらネジを締め直す。
たったそれだけの作業の高速道路上では大変。
旧車に乗るオーナーとしての準備不足を経験したのもこの事件から。。。
ロータス ヨーロッパは軽いのが命。だが、エンジンフードは軽すぎてトラックが通る度に、
もぎ取られそうなくらい開いてしまう。深呼吸してから再び1速へ。 ・・・入らない・・ギアが入らない!
少し下り坂なのでサイドブレーキをおろす。車を前へ押すが1センチも動かない。こんなときにブレーキが
良く効いてどないすんねん!ミッションオイルの漏れる量がかなり多い。重症である
高速道路の非常電話からJAFに連絡。
車種を言うとあまり良くない応答。以前にもロータス ヨーロッパには苦労させられたとのこと。
積載車がきて、苦労しながらも、なんとか自作ガレージへ4人がかりで入れる。
JAF会員でないので、ほんの10分ほどの道のりが4万円近くかかった。何とも情けない。
車を乗り換えることが頭をよぎりだしたのも、この事件から・・・。
すぐ、山本自動車へ修理に出すことにした。レンタカーで積載車を借りて、また、友人達の手を借りて乗せ、
1人で京都まで。 なんとお金と時間のかかる車だと思ったことか・・・
数日後、山本さんより連絡有り。例のあの一言である(笑)
「かわいそうにのう~、ミッションケースの中でベアリングが飛び散って、ギアに噛んでいるで~。
しかし、ロータスのギアは丈夫やの。ベアリングが こんなに壊れとるのにギアは全部使えるでの~。
まぁ、一ぺん見に来てみぃ。」
そりゃ、えらいこっちゃ!!と友人を呼んでまた京都まで・・。連れまわされる友人も気の毒である。。。
ミッションケースの中は鉄の粉だらけ。おまけにケースは1度割れていたのか、アルゴン溶接のあと。
エンジンマウントは溶接してあるわで、さっぱりわやや。
山本さんと修理の内容の話によれば、お金の心配が先。おまけに愛車は無く、ストレスはたまるばかり。
一生の中でもあんなに落ち込んだ数ヶ月は、初めて。
結局修理代は、479,870円也。今でも明細書はもったいなくて、捨てられない。
車のない間、自分の気持ちをコントロール。 元々不満であったミッションだけに50万近い修理代を使うのだから、さぞ、
今度乗ったときにはスーパーカー だろうとよい方向に気持ちを切り替えた。
京都へロータス ヨーロッパを取りに行くときは、陸運局に取りに行くとき以上に期待し、早くミッションの感覚が
どれだけアップしたのか、乗りたくてしようがなかった。
修理代を払い、山本さんより少しの注意点を聞き、暖機を済ませていざ神戸へ。
1速、2速、3速へ、そのとき50万が飛んでいった・・・。「なんでやねん?!」
気の軽い俺もさすがに重かった。
そこで決断、ロータス ヨーロッパを手放そうと。まわりの友人に助けてもらい、お金をかけても現状維持がやっと。
これ以上泥沼に填ってしまう前に。。。。
さっそくカーマガジン売買コーナーへ手紙を書き、ポストへ。 数ヶ月後、カーマガジン売買コーナーに
頭の中は違う車で走っている自分がいた。
数日後カーマガジンを見たと連絡があった。ロータス ヨーロッパを探していて是非見せて欲しいと。
今度の日曜日に見に行き、程度によっては買うとのこと。
週末にロータスヨーロッパを売るために洗車にガレージに迎う、まさか売るために洗車するとは夢にも思わなかった。
少しほこりをかぶったロータス ヨーロパが寂しそうに停まっていた。ヘッドライトが自分を見ているような気がする。
大好きなロータスヨーロッパだったので今日の顔が違って見えた。
やっぱり売れない!!すぐ購入希望者へ連絡し事情を理解していただいた。
その後、自分のロータスヨーロッパをいつものように奇麗に洗車したことを今でも覚えてる。
Lotus Europaを小学生時代から夢見た自分。 手にする前はこんな筈ではなかったのに、
ロータス ヨーロッパが好きだったのに、仕方なく売ってしまった人も多いはず。
自分のためにも楽しめる仲間が必要。
子供のころどんな車とのバトルも絶対負けないと思ったLotus Europa。
新車も値落ちする、古くなる、錆が出る。やっぱり一番好きな形を残そうとLOTUS中心のクラブを作ることを思う。
早速カーマガジンフォーラムへ。
【1992年5月167号に『LOTUS中心のクラブを作りませんか!』と掲載される】
そしてLOTUS JPS CLUBこのクラブがスタートした。
ロータス ヨーロッパを買う前にそれなりに資料を集めた。
その中で印象に残った言葉は、【ハンパじゃない授業料】と【私は私自身を売りません】この2つの言葉だった。
その本は、【株】アーバンナウ発行 ”忘れ得ぬ一台”。その中のオーナーがこう語っていた・・・。
【ロータスヨーロッパが出ている雑誌は何でも購入した】
OWNER’s TALK 【株】アーバンナウ発行 ”忘れ得ぬ一台”より
この車が私の下へやってきたのは1979年8月。
ナンバープレートがたまたま「79-46」なのでこの記念すべき年は、忘れられないのです。
ちなみに私は九星で言うと四緑木星なので、私のヨーロッパは私自身と言うことになります。
単なる語呂合わせと思われるかも知れませんが、どちらかというと縁起をかつぐ方の
私にとって結構マジに受け止めており、従って車は自分自身が映るように思えます。
そう言った意味で、ヨーロッパから様々なことを学びました。
確かにハンパじゃない授業料も払いました・・・。
具体的によい点、悪い点を上げればキリがありません。
それよりもむしろ生活の中にこういう形で溶け込んでくれることこそ、LOTUSの最大の
あえて言えばよい点だと思います。
最後に【私は私自身を売ったりしません】